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梅 (松型駆逐艦)[うめ]
梅(うめ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦。松型(丁型)の3番艦である。日本海軍の艦名としては2代目(初代は二等駆逐艦「樺型」5番艦)。丁型一等駆逐艦第5483号艦として藤永田造船所で建造された。 ==艦歴== 竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(高間完少将・海軍兵学校41期)に編入。瀬戸内海で訓練の後、7月15日、「松」「竹」「桃」とともに第四十三駆逐隊(菅間良吉中佐)が編成される。8月20日、第四十三駆逐隊は新編された第三十一戦隊(江戸兵太郎少将・海兵40期)に編入。編入後も瀬戸内海で訓練を続行する。10月25日には「桃」「樅」「榧」とともに、台湾への輸送作戦を行う空母「龍鳳」、「海鷹」を護衛して佐世保を出撃し、10月27日に基隆に到着〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.5,31,41〕。輸送任務を終えた後は10月30日に基隆を出港して佐世保を経由し、11月2日に呉に帰投した〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.33,42,51,52〕。 第三十一戦隊は旗艦の軽巡洋艦「五十鈴」と駆逐艦6隻を以って、南方に進出する戦艦「伊勢」「日向」を護衛することとなった〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.53〕。11月9日に五島列島有川湾を出撃し、馬公経由で南沙諸島長島に到着〔野村, pp.9〕。その頃、に在泊中の、戦艦「大和」を主力とする第二艦隊(栗田健男中将・海兵38期)は度重なるB-24 の空襲を避け、日本本土に回航して整備を行う事となった〔『第十七駆逐隊戦時日誌』pp.20〕。同日夕刻にブルネイ湾を出港した第二艦隊と翌11月17日に「桐」とともに合流〔『第十七駆逐隊戦時日誌』pp.6〕。11月20日まで護衛に協力した後〔『第十七駆逐隊戦時日誌』pp.7〕、馬公に帰投した〔木俣『日本戦艦戦史』592ページ〕。その後、マニラに進出してレイテ島行きの多号作戦に参加する事となる。 12月5日10時半〔木俣『日本水雷戦史』569ページ〕、第八次多号作戦輸送部隊はマニラを出撃。しかし、12月7日にアメリカ軍第77師団がオルモック南方に上陸したため、オルモックへの接近を断念して揚陸地をサン・イシドロに変更。兵員の揚陸は成功したが重火器の揚陸は出来ず、タクロバンからの陸軍機と海兵隊機の爆撃を受け、船団も「白馬丸」(日本郵船、2,857トン)〔読みは「はくばまる」ではない(『日本郵船戦時船史 下』65ページ)〕が撃沈され、残りの輸送船も海岸に擱座して壊滅した。マニラへの帰投中の12月8日、空襲により被弾中破。さらに、マニラ帰投後の12月15日にも第38任務部隊(ジョン・S・マケイン・シニア中将)の艦載機の空襲を受け、香港に向けて脱出する〔木俣『日本水雷戦史』571ページ〕。道中、荒天に見舞われて三亜で待機し〔『第五艦隊戦時日誌』pp.42〕、天候が回復してから香港に向かって、1945年(昭和20年)1月14日まで香港で修理を行った〔『第三十一戦隊戦時日誌』pp.35〕。これより先の1月9日には、第四十三駆逐隊の新しい司令である吉田正義大佐が着任して司令駆逐艦となる〔『第三十一戦隊戦時日誌』pp.44〕。修理完了後、南シナ海に進撃していた第38任務部隊の艦載機の空襲が止むまで待機の後、高雄に回航された〔『第三十一戦隊戦時日誌』pp.37,39,40,41,42,45〕。1月21日にも空襲を受けたが、戦死者1名を出したのみで船体に被害は無かった〔『第三十一戦隊戦時日誌』pp.47,48〕。「杉」とともに基隆に回航されるも〔『第三十一戦隊戦時日誌』pp.49〕、フィリピンからの搭乗員救出(パトリナオ輸送作戦)のため高雄に呼び返された〔『第三十一戦隊戦時日誌』pp.54,55〕。 1月31日朝9時〔『第三十一戦隊戦時日誌』pp.60〕、「楓」「汐風」とともに高雄を出撃し、ルソン島最北端のへ、アパリ防衛のための高雄陸戦隊や燃料、車両、弾薬を乗せて向かう〔『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074800, pp.56〕。出撃から2時間後、偵察のB-24 に発見され〔『第三十一戦隊戦時日誌』pp.60 、木俣『日本水雷戦史』614ページ〕、対空砲火で追い払ったものの更なる空襲は必至となった。15時頃、台湾最南端ガランピ岬南方20海里において第14航空軍所属のP-38 に護衛された第38爆撃航空団所属のB-25 12機と第35戦闘航空団所属のP-47 4機の空襲を受ける。左舷側から集中攻撃を受け、目まぐるしく転舵していったものの、艦橋上の射撃指揮所および前部砲塔と艦橋間の甲板などに3発被弾、機械室を破壊されて後部が切断し航行不能になる。爆撃の後は機銃掃射を受け、乗員が次々と打ち倒されていった〔雨倉, 103ページ〕。「楓」も艦首に被弾し、「汐風」も至近弾により右舷高低圧タービン損傷により速力が低下する被害を受けていた。吉田司令はタバコをくわえて乗員に落ち着くよう態度で示したが〔木俣『日本水雷戦史』615ページ〕、船体は20度傾斜して浸水を防ぐ手立ても失われた。戦死者は77名、負傷者は36名を数えた。吉田司令など生存の乗員が「楓」と「汐風」に移った後、18時過ぎに「汐風」の砲撃によって処分された。「楓」と「汐風」は作戦の中止により高雄に引き返した。3月10日に除籍。
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